1.はじめに
 わが国最初の保育者養成は1879(明治12)年に官立の東京女子師範学校に保姆練習科が設置されたことにより開始された。しかし,これは第1回の卒業生を出しただけで廃止となり,同校本科に幼稚保育術と幼稚園実地保育という科目が組み込まれた。その後は小学校教員養成に付随して保育者養成が行われた。また,官立学校における保育者養成を基盤にしつつ,各幼稚園での見習い制や東京府教育会による速成養成がなされた。
 キリスト教系では桜井女学校幼稚保育科1が最初の保育者養成機関であった。これは米国長老派教会の宣教師であるエリザベス・パットン・ミリケン(Elizabeth Patton Milliken, 1860-1951)によって1884年に始められ,1898年に廃止されるまでに,少なくとも43名の卒業生を輩出し,私立における保育者養成の先駆となった。
 戦前の保育者養成においては,官立に対し,キリスト教系保育者養成機関の方が優れた養成を行なってきたといわれながら2,その存在は傍流に位置づけられてきた。それは,保育者養成の内容や養成された保育者の資質能力,また,その後の成長に対する実証的研究がほとんどないためである。
 そこで,本稿では,草創期におけるキリスト教系保育者養成機関が養成した保育者の思想や実践を明らかにするため,桜井女学校幼稚保育科卒業生である吉田(春日)鉞エツに注目する。
 幼稚保育科卒業生の中で,とりわけ吉田は多くのキリスト教系幼稚園に関わっており,幼稚園教育のパイオニアとして知られている。彼女は『日本幼児保育史』において,明治時代の幼稚園設立に貢献した婦人として「春日鉞のようなクリスチャンの保姆等の努力がめだっている」3と評価されている。また,『日本基督教幼稚園史』では「最初の基督教幼稚園保姆」として取り上げられ4,『キリスト教保育に捧げた人々』5にも紹介されている。これらの先行研究では,彼女が多くの幼稚園を設立し,主任保姆として活躍したと指摘されてきたが,彼女の保育実践の内容や特質については具体的に検討されていない。
 本研究では,まず吉田の学習歴や職歴を概観し,彼女が受けた保育者養成と,彼女が行なった実践や保育者養成の内容についてできる限り整理し,紹介したい。また,従来は,英和幼稚園における彼女の最初の実践のみが注目されてきたが,本論文では室町幼稚園における実践も対象とする。主として,今回新たに発見された室町幼稚園の保育カリキュラムの分析を通して,彼女の保育思想と実践の特質について考察したい。
 なお,本稿の作成にあたり,調査は田中・橋本の二人が行い,論文の執筆は田中が担当した。
2.吉田鉞の学習歴と職歴
 従来,吉田の履歴については『日本基督教幼稚園史』6や『北陸五十年史』7にある彼女の回想に基
づいて紹介されてきたが,今回筆者は吉田の履歴書8を発見したため,これに拠って吉田の経歴等を正確に示すことを試みたい。
桜井女学校幼稚保育科卒業生吉田鉞の保育思想とその実践──室町幼稚園の保育カリキュラムに着目して──
田 中 優 美*・橋 本 美 保**
教育学分野
(2010年9月27日受理)
東京学芸大学紀要 総合教育科学系Ⅰ 62: 19-30,2011.
 * 東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科
** 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町4-1-1)
2.1 幼稚保育科入学以前の学習歴と入学経緯
 吉田は1865(慶応元)年6月に現在の愛知県名古屋市で生まれた。彼女は1877年3月に11歳で女範
学校(後の愛知県立女学校)に入学した。また吉田幾次郎に就いて算術を,鈴木鎌蔵に就いて漢学を学び始めた。1879年7月には14歳で愛知県師範学校女学部と私立名古屋女礼学校に入学した。1881年7月に私立名古屋女礼学校を,1882年3月に愛知県師範学校女学部の全科を卒業し,1883年12月には吉田幾次郎の算術を修業した。また,1885年8月に鈴木鎌藏の漢学を修業した。
 1884年2月に中等科教員の免許状を得て,愛知県名古屋区公立幅下小学校七等訓導に任じられた。翌年の1月には同校六等訓導に任じられたが,1885年9月に小学校の訓導職を辞した。
 彼女の業績については,1878年11月の巡幸の際に,学業に励むようにと天皇から金50銭を与えられたことや,1882年3月に学力優等のため愛知県から家事経済学の一部に対して賞典を受けたことが履歴書に記されている9。吉田自身が「明治十年名古屋の(県立)女範学校を卒業して十何歳で早くも小学校教員の免状を受けました」10と述べているように,彼女が特に学業に秀でた人物であったことが窺える。
 幼稚保育科へ入学する経緯について,吉田は以下のように回想している。
(女範学校の同級生であり:筆者注)卒業後横浜
の聖経女学校に奉職した稲垣すゑ(海野)姉もそ
の一人でした。処がその稲垣さんの許に一人の歳
若い宣教師が尋ねて来られ,北陸に幼稚園を建て
たいのだが誰か手伝つてくれる人はなかろうかと
相談されたのがミス・ポートルでありました。稲
垣さんは一寸思ひ当る人もいないので『先生一所
に祈つてみませう』と二人で祈り始められました。
すると胸に浮んだ顔が私であつたと云ふので早速
ポートル先生に話して賛成を得るなり手紙を書い
て寄こしました11。
 このように吉田は,稲垣によってポートル(Francina E. Porter)12に紹介された。
 ポートルが「殊に北陸に行く前に東京へ桜井女学校(今の女子学院)のミス・メリケン先生に就て
幼稚園の保姆科を修業して来て貰ひたい」13と吉田に依頼したため,この手紙を受けた吉田は「その当時の私は何とかして大阪なり東京に出て見たいと考へて居た折とて心躍る思ひで承諾を与へて」14上京することになった。
 ポートルは桜井女学校のマリア・ツルー(Maria T. True)15から「設立するなら完全な幼稚園を」16と助言されたこともあって,当時としては保姆として働く上で十分な学歴を有した吉田を,わざわざ自費で東京の桜井女学校に入学させて幼稚園の専門的な知識・技能を取得させようとしたと考えられる。
 吉田は当初,上京したいという思いからポートルの依頼を引き受けたが,「ミス・ポートルの曰く,設立するなら完全な幼稚園をとツルー先生が申されたとて,一生懸命なりし私は昔の娘にて働きたくたゞ心命かけてもと云ふ一念」17で幼稚園教育に関わったという。
2.2 保姆としての基盤の形成
 桜井女学校は1876年に桜井ちかによって創設された。1881年からは経営が米国長老派教会婦人伝道局に移り,矢嶋楫子を校長とし,ツルーによって事業が拡大された。1889年には,新栄女学校と合併し,女子学院となる。桜井女学校は幼稚園,尋常・高等小学校,貧学校,看護師養成所等の多くの附属機関を有し,全国でも生徒規模が最大の女学校であった。
 桜井女学校における保姆養成は,1884年に米国長老派教会の宣教師であるミリケンが来日したのを契機に開始された。彼女によって同校にアメリカの保姆養成の理論や制度がもたらされたと考えられる。桜井女学校には女子教育の一環として保育学や保育法という科目が設けられていたが,それとは別に幼稚保育科において専門的な保姆養成が行われていた。幼稚保育科では,キリスト教思想を基にしたフレーベル主義の理論と実践がセットになった養成が行なわれており,保育方法のみならず,保育理論も重視されていた18。このように,幼稚保育科での保姆養成は,東京女子師範学校や,各園での見習制の保姆養成とは異なる特質を有するものであった。
 吉田は「上京致しましたのが明治十八年の春でありました」19と述懐しており,彼女の履歴書には「一同十八年九月東京麹町区上二番丁女子学院内幼稚園保姆科及英学科修業,一同十九年七月該保姆科卒業」20とあるので,1885年の春から半年ほどで幼稚保育科と英学科を修業し,幼稚保育科においては1886年7月まで勉学を続けて卒業したとみられる。
 また,吉田は「桜井女学校に入って矢島楫子先生の御指導を受け,麹町教会で奥野昌綱先生から洗礼を受けた時に,初めて心の底から信仰と云ふものがハッキリわかりました」21と述べているように,桜井女学校
東京学芸大学紀要 総合教育科学系Ⅰ 第62集(2011)
時代に洗礼を受け,キリスト者としてのアイデンティティーを確立させていた。吉田はこの時期に,保育実践を展開していく上での基盤を獲得したと考えられる。
2.3 英和幼稚園の設立・実践と金沢女学校への入学 幼稚保育科を卒業した吉田は「両親から今さら北陸の田舎になんか行かぬがよいと云つて寄こしたり,女範学校からも名古屋に戻つて来て母校に教鞭を執つては如何かとしきりにすゝめて参りましたが,私としては一たんミス・ポートルにお約束したのでありますからと申して一切の義理や人情を振切つて金沢に赴任する事に決心致しました」22と述べているように,約束通り金沢へ赴任することを決断した。ポートルは金沢から吉田を迎えに来て,1886年8月に東京を発った。ポートルとともにネラー(Laura Mccord Naylor)を迎えに来た金沢女学校のヘッセル(Mary Katherina Hesser)も一緒に,4人連れで金沢へ向かった。道中では大阪のハーワの所に寄り,蔡倫社で幼稚園のための買い物をした。彼女らは交通の不便さやコレラの検疫を受けるなど,苦労を重ねて金沢に到着した後23,吉田はすぐに幼稚園の設立に着手した。その手続きについて吉田は以下のように述懐している。
金沢に着きまして第一の仕事は幼稚園設立の手続
をする事でありましたが,一体何処にどんな形式
で届ければよろしいかなかヘわからぬもので
す。然し幸な事に桜井女学校在学中矢島校長の御
命令で小学校の御手伝をして居たのでその頃の生
徒に…(中略)…文部次官折田氏の令息が居られ
た関係から,当地への出発前に一度折田文部次官
に会つて幼稚園設立をするには如何したらよいか
观月雏尋ねて置いた事が,今役に立つ時が来ました。金
沢に着くなり早速県庁に赴き学務課に出して…
(中略)…都合良よく設立届を出す事ができたの
でした24。
 残念ながら,この設立届は現存していない。金沢で設立に先立つ重要な仕事を終えた吉田は,1886年10月に英和幼稚園と英和小学校を設立した。
 英和幼稚園で園長を務めた吉田は,「ミス・ポートルは幼稚園に就ての経験も見識もあまり無い方ですから,一切を私にまかされました」25と述べており,ここで吉田は桜井女学校で学んだことを実践に移していったと考えられる。
 英和幼稚園における保育実践はキリスト教が強く,聖書の話がなされていた。また,すでに明治前期からアメリカで使用されているリズミカルなテンポの唱歌が英語のまま用いられ,「豆腐man」や「鉄道ごっこ」という身近なものを題材にした創作遊戯が導入されていた。さらに,恩物を直接海外から輸入し,形式主義的な恩物教育ではなく,子どもに自由に恩物を使用させていた26。
 『日本幼稚園史』には「明治十九年十月石川県に創立された英和幼稚園は,北米人の経営になるもので,ミッションの幼稚園として当時唯一の異ある幼稚園であつたのであらう」27とあり,「創立当初英和幼稚園と称す。北米人ミスポートル園長に就任。フレーベル主義を以て始められ,又基督教の幼稚園としては当時の珍しい存在であった」28と紹介されているが,これは英和幼稚園が以上のような特徴を有していたためであろう。
 また,吉田の履歴書には「一同十九年十月石川県金沢女学校英学科エ入学」29とあり,1886年10月に金沢女学校英学科へ入学していたことが判明した。さらに「一同廿一年二月ヨリ同廿四年六月迄米国人幼稚園専門教師ヘレン,エス,ラブランド氏ニ就キ教育学并ニ音楽修業」30とあり,吉田が1888
年2月から1891年6月まで米国人幼稚園専門教師ヘレン・エス・ラブランドのもとで教育学と音楽を修業していたことが明らかとなった。「(ポートルの:筆者注)賜暇帰省中後任として来られたミス・ラブレンはなかなかの専門家」31と吉田は述べている。ラブランドについての詳細は不明であるが,金沢女学校に派遣された教育宣教師であったと考えられる。
 しかし,吉田は脚気となり,親が心配して金沢まで迎えに来たため,1891年7月に辞職した32。吉田が金沢において幼稚園教育に従事したのは約5年間であった。
2.4 キリスト教系幼稚園創設に関する諸活動
 吉田はしばらく休養していたが,名古屋市内に幼稚園を開園したばかりのミス・ケースに頼まれて,彼女の幼稚園を手伝うようになった33。
 その後,「横浜のミス・サイモンスから幼稚園を建てたいから是非手伝つてくれとの依頼があり,横浜なれば遠方でもなし,気候も寒くないからとて親の許しを得て再び名古屋を離れました。それは明治廿六年一月の事でした」34とあるように,吉田は1893年1月から神奈川幼稚園の園長となり35,その2か月後には神奈川県知事から幼稚園保姆免許状を受けた36。この時のことを吉田は,「私は初の一年餘しか御手伝ひ致し
田中・橋本: 桜井女学校幼稚保育科卒業生吉田鉞の保育思想とその実践
ませんでしたが,私の後任には橋本花さん,次に二宮わかさんが責任を持たれました」37と述懐しており,幼稚園の運営を後任の保姆に託し,自らはポートルが設立する幼稚園を助けるため,京都へ渡った。吉田は京都に移った経緯について,「その頃京都に移ったミス・ポートルから又自分と一緒に働かないかと申して来ました。私は只もう幼稚園の為とのみ考えて働いて来たのですから,神奈川を振切るには忍びない思がしましたが,京都に新しく幼稚園を建てるので是非自分に来て欲しいと云ふ恩師の言葉でもありましたので,これも神様の御使命と思ひ再びポートル先生の許に参り,幼稚園設立の準備にかゝりました」38と説明している。
 吉田が京都に移ったのは1893年10月であった。1893年10月25日に西陣幼稚園(現在の栄光幼稚園)が開設されると39,吉田は園長に就任した40。『京私幼50年史』には「京都にあっては,明治26年初めてのキリスト教主義幼稚園として,上京区松屋町に西陣幼稚園は生まれ」41と記されている。この西陣幼稚園については,『日本基督教幼稚園史』に以下のように紹介されている。
京都西陣幼稚園 明治廿六年十月廿五日創立
保守的な習慣を墨守すると云つても過言でない京
都の町に基督教の旗印を高くかざして四十八年も
前に谷口礼子氏によつて創立され,初代園長はミ
ス・ポートルでありました。創立のためミス・
ポートルを助けて実際の仕事をしたのは春日(吉
田)えつ姉でありました。その当時の苦心は想像
も及ばぬ程で,保育料は殆どとらず清潔なエプロ
ン手技材料等を園から与えて居たと云ふ事であり
ます。創業園児数約千二百名42。
 吉田は西陣幼稚園を手伝った後,同じ京都において1896年1月29日に室町幼稚園を創設した。同園については次章で詳細に検討する。
2.5 晩年の保姆養成に関する活動
 吉田は1904年1月に宮城の師範学校内に保姆養成所を設置した。以下に『婦人と子ども』に掲載されたこの保姆養成所に関する二つの記事を引用する。
○保姆養成所
在仙台の春日えつ,立花せん二氏の発起にて同地
師範学校内に保姆養成所を設置し,幼稚園保姆た
らんとする者及一般婦女に育児,保育の方法を知
らしめんとの目的にて,本年一月より開所せしが,
現在生徒は二十七八名にして,内十七八名は保姆
の資格を得て,来る七月卒業の上,それヘ各地
へ赴任する事となるべしと,目下適良保姆欠乏の
際に当り,此事あるはまことに喜ふべきことなり
因に同所修業年限は六ヶ月,生徒は高等小学校卒
業の者より取り,学科は教育,保育,育児,恩物
取扱方,手芸,唱歌,遊戯なり43。
宮城県保姆養成所
同県師範学校内に開きたる同所第一回卒業生の実
地保育は,其児童二百名に及び非常の好成績にて
先月二十二日終了せりといふ44。
 春日(吉田)えつと立花せんは宮城県師範学校内に保姆養成所を設置した。その対象者は保姆として働くことを希望する者に加え,一般の女性も含まれており,入学資格は高等小学校卒業であった。同養成所には,育児と保育の方法を教えることを目的として,修業年限6か月間で,教育,保育,育児,恩物取扱方,手芸,唱歌,遊戯の7学科と実地保育が設けられていた。
 6か月間の養成は,公立の保姆養成機関としては一般的なものであったが,キリスト教系保姆養成機関における2年間の養成とは格段の差があった。しかし,「目下適良保姆欠乏の際に当り,此事あるはまことに喜ふべきことなり」とあるように,吉田たちはキリスト教系の幼稚園や保姆養成だけではなく,一般のそれにも貢献したといえる。
 吉田はその後再び上京し,1924年から1939年まで川村女学院(現:川村学園)で「礼法と手芸」という科目を教え,川村女学院退職後,1942年7月14日に他界した45。
3.室町幼稚園の保育カリキュラムの特質
 室町幼稚園に関しては,これまで『京私幼50年史』に「明治29年に室町幼稚園」46,『日本基督教幼稚園史』に「廿七年三月に室町幼稚園が開園」47という記述があり,『日本幼児保育史』に1894(明治27)年3月にミス・ポートルによって設立された48という情報だけが紹介されてきた。今回筆者は吉田によって1896年1月29日に提出された室町幼稚園の「私立幼稚園設置伺」49(以後設置伺とする)を発見した。
 設置伺によると,室町幼稚園は1896年1月29日に,京都市上京区室町通丸田町上ル大門町二百七十番地ノ一に設立された。設置の目的には「本園ハ学齢未満ノ
東京学芸大学紀要 総合教育科学系Ⅰ 第62集(2011)