重慶概況
重慶は歴史の古い町である。史料により、2万年の旧石器時代からもう人類がここに生活していたことが判明できる。紀元前十一世紀の西周時代、この町は既に「巴の国」の首都となっていた。「巴の国」の名は四川を流れている長江の支流、嘉陵江が巴の紋の如く曲がりくねっているので名づけられたのだという。秦の始皇帝が天下統一以後、ここに「巴郡」を設け、漢代になって「江洲」と改められた。また嘉陵江畔に位置しているので、嘉陵江の別称「渝水」の名に因んで隋代には「渝洲」とも呼ばれた。北宋時代になってまた「恭洲」と改名された。1189年1月、趙淳という人が恭洲の王に封じられたが、すぐ2月に帝位に就けた。これは二つの大喜びで、喜びが重なるという意味から「重慶」と名づけた。重慶の名は今日までずっと使われてきた。
近代に入ると有名な中日戦争のため、重慶はその戦争の裏の舞台となった。中国大陸の西南地方に当たる重慶は古来の僻地の故、さすがの日本軍も容易に攻められないだろうと考
慮し、国民党が南京にあった政府を一挙に重慶に移してきた。1938年から重慶は戦時の首都となった。市区の範囲が広げられ、人口もどんどん増えてきた。重慶は第二次世界大戦の有名な都市になった。
新中国成立後、重慶は工商業とも繁栄している大都市で、中国西南地方の水陸交通要点と内陸対外貿易の港で、長江上流の経済の中心地となった。1994年12月、世界第一を誇る水利プロジェクトー長江三峡水利発電工事が正式に起工した。これにより、中国西南部における最大の工業都市、長江上流の経済中心地重慶は、新たな使命を担うことになった。すなわち重慶市から宜昌市まで延々600キロメートルに及ぶ長江三峡ダム区域の当たる重慶は当地区の経済発展をリードするという歴史的な重任を負っているのである。重慶市は1997年3月に中央直轄市になったのは、これが重要な原因からであろう。
動乱、飢饉、革命、改革などを経歴し、今日に辿り着いた重慶は面積が8.24万平方キロメートルで、総人口が3002万人も超えた。人口数からしては世界で一番多い都市だが、町の人口は600万人で、農村の人口は2400万人である。
温帯気候に恵まれ、農業は盛んである。お米から野菜、果物などまで全部この地で取れ
ることもかかわらず、機械・冶金・化学・食品・紡績なども中国では指で数えるほどである。ここ数年来、外国企業、商社の進出により、オートバイ、自動車の製造や対外貿易の発展の速度も速まる一方である。改革開放が深く進んでいくに従い、重慶の機械製造能力がよく発達しているため、日本の五十鈴、本田、ヤマハ、鈴木のような大きな自動車会社は重慶で自動車とオートバイの合弁会社を作った。
新中国が重慶の建設へは早い時期から力を入れたおかげで、重慶は今でも西南地方の物質の集散地として大きな役割を果たしている。長江の三峡下りの出発点として近年旅行業も発展しつつあり、また長江開発のブームに乗り、素早い発展が見られる。
重慶は山の城である。東には金紫山、人山、南には南山、金仏山、西には歌楽山、中梁山、北には華莹山、缙雲山などで、「山の城」としてよく知られている。かといって、町の中心部は長江と嘉陵江に挟まれている半島で、海抜はそれほど高くない。平均値は240メートルで、最低の場所は港の朝天門にあり、160メートルしかない。それに対して、最高の場所は鹅嶺公園の展望台であり、402メートルである。山が多いため、風は強くないし、夜になると、平地の都市の夜景が一層立体感に富み、綺麗に感じさせる。
発展途上のわりには夜景がそんなに素晴らしいのは全国では有名である。市内で最も高い南山公園からは、昼はこの「山の城」の雄大の景観が眺められ、夜は灯火が敷きつめる見事な夜景が楽しめる。
重慶はトンネルの多い町でもある。山が多いため、道路を作るには隔たりもたくさんあり、その故トンネルが沢山作られた。数々のトンネルがまたこの町のため趣をつけている。
「霧の城」とは重慶の別名の一つである。一年平均にして霧の立つ日は68日も示す。特に冬になると、霧の日が多い。霧の深い時には、3、4メートル以内のものしか見えなくなるほどである。飛行機は離陸、着陸ともできなくなり、船はちっとも動けなくなる。そのほか、あまりの暑さでも有名である。二つ目の別名として「ストーブ」を挙げられる。長江沿岸には三大ストーブがあり、それぞれ南京、武漢、重慶のことを指している。特に重慶は山に挟まれ、その蒸し暑さといったら言葉も出ない。湿度が高いため、冬でも骨までしんしんと来るので、そんな気候の中で「火鍋」は重慶人の好物となる。「火鍋」とは日本のシャブシャブに多少近く、汗を誘い、体内に留まる湿気を除か
せ、気分をすっきりさせてくれる名物料理である。重慶では「火鍋」は一年中好まれる存在である。
自転車が少ないのは重慶のもう一つの特徴とは言えよう。山の上で出来た坂道で、自転車に乗ることは結局自転車に乗られること(自転車を背負って歩くこと)になるわけである。その故、自転車がほとんど見かけない。自転車の王国とも呼ばれる中国では確か珍しいものである。
四川風シャブシャブ(火鍋)
四川風シャブシャブは地元の言葉で言えば火鍋である。現在、「山の城」重慶の所々に行っても火鍋の店が立ち並び、火鍋の味は空気中に漂っている。だから火鍋は重慶人の大好物とも言えるんだろう。
何故かというと、重慶の気候に大きな関係があるからである。重慶地方は冬になると、霧がよくかかり、湿気が非常に高く、日照り時間が少なく、リューマチにかかりやすい。
火鍋の中で唐辛子、山椒、胡椒、生姜などの調味料が沢山使われ、リューマチを取り除くことが出来ると言われている。口と舌をぴりぴりと焼くほどの辛さで人々の食欲を刺激するばかりか、自然で新鮮なものを豊富に使用でき、栄養的にも優れている。
火鍋の発祥地は重慶市江北区の嘉陵江の川沿いである。昔火鍋の原料は牛の内臓だけであった。その時の商売人は牛の内臓を洗ってから、出し汁のある鍋に入れて煮込む。食べる人は労働者、運び屋さんが多かったので、原料が牛の内臓が一番安かったそうである。第二次世界大戦中、重慶は臨時首都として、政治・経済・軍事の中心になりまして、市内の人口も増えたので、火鍋の店もどんどん出てきて、今は料理屋だけでなく、ホテルの上品な宴会にも出るようになってきた。
ここ数年来、火鍋の好きな重慶人は伝統的な火鍋の特を守る上、原料の内容も多く増した。烏賊、太刀魚、泥鰌、しいたけ、肝臓、昆布、たけのこ、もやし、じゃが芋、キャベツ、カリフラワーなど、百以上の種類がある。作り方も昔より変わってきた。一つの鍋に二種類の味があるので、「おしどり火鍋」と呼ばれている。あっさりした味の原料は野生の鶏のスープ、枸杞(こうき)、胡椒などで栄養も高く、体にいい料理である。
また、四川風シャブシャブは本格的な日本のシャブシャブとは違い、味はもちろん、食べるには季節も限られていない。昔、地元の人は真夏に裸でふうふうと辛い火鍋を食べているのはいつもテレビ番組に出ている。最近各店は冷房を備えてあるので、真夏でも食べる人は少なくない。特に一家団欒して鍋一つを囲み、思う存分話したり、笑ったりしながら火鍋を楽しむ時の風景はまた格別である。友達を招待する時も、火鍋をご馳走することが重慶人の自慢である。初対面の人でも一緒に火鍋を食べると、すぐに親友になれるという魅力もあると言われている。そのため、火鍋は重慶人にとって絶対欠かせない食べ物である。ある作家はこう言った。火鍋を食べないと、重慶に来た意味がないということである。重慶にいらっしゃるお客様、ぜひ本場の火鍋を召し上がってください。
人民大礼堂
皆様の目の前の建築物は非常に有名な重慶市人民大礼堂である。一目で見た時、たぶんとても馴染みのあるような気がするかもしれない。建物の主体が伝統的な建築様式を採用して、さらに北京の天壇をモデルとして作られたものである。その工事は1951年に着
工し、1954年に完成されたのである。敷地面積は2500平方メートルがあり、地面から一番高いところまでは65メートルもある。真ん中の丸い部分は4200人ぐらい収容できる大講堂となっており、市政府の重要会議が行われる場所でもあるし、大型コンサートなどの行われる場所でもある。左右にある細長い部分は現在人民賓館の客室として利用されている。この建物の建築様式は依然として中国歴史上にある主体を中心に左右対称の様式を採用してある。それは必ずしも実用的なものではないが、人々に華やかで荘厳なイメージを与えられる。そういった風格の建築物は中国の古典建築の中では最高級の代表である。
さて、なぜ真ん中の部分はわざわざ北京の天壇をまねして作られたのか。たぶん皆さんご存知かもしれないが、北京の天壇は昔皇帝様が祖先を奉る所で、常に世の中の五風十雨を祈った場所となっていた。この大礼堂が建て始めたころはちょうどわが国が成立した当初で、設計者も国の繁栄と発展を祈った心を込めているであろう。
この建築物の設計者は張家徳という方で、四川省の出身であり、もともと南京国立中央大学建築学部の卒業生である。1941年から1949年まで重慶で建築事務所を経営していて
、この大礼堂は張先生の生涯では最も成功な代表作である。張先生は1982年5月北京でなくなったが、この建物は既に重慶市のシンボルとなっており、さらに世界で多くの建築専門書籍に記載されている。
桂 園
重慶は第二次世界大戦の臨時首都として、多くの歴史古跡が残っている。蒋介石の黄山官邸や小泉校長官邸など、今まで多く残っていて、対外に開放されている。一方、中国共産党に関する歴史古跡は紅岩村八路軍事務所、曾家岩50号、それから桂園という所である。その中で一番重要なのは桂園である。
桂園という所はもともと国民党の張治中将軍の別荘である。桂園の中には二本の木犀の木が植えてあるので、そう名づけられたのである。庭園のあたりは灰の煉瓦で造った塀があり、玄関の上には「桂園」という字が刻んである。
1945年8月28日から10月10日まで、毛沢東さんは重慶で43日滞在なさった。その時、毛沢東さんは延安から重慶に到着してから紅岩村の八路軍事務所に住んでいた。張治中将
重庆旅游点軍が自分の別荘を譲って、毛沢東の市内における事務所となった。しかし、毛沢東様はここに住んでいなかった。昼は桂園に行って会談をしたり、中国と外国の記者など面会したりして、夜はやはり桂園に離れて約5キロの紅岩村に戻ることになった。
1945年8月第二次世界大戦が終わり、蒋介石と毛沢東は対立の両方の首脳としてどのように合作し、新中国を建設するかについて検討し交渉した。結局、中国現代史における重要な位置を占めた「双十協定」を締結した。その協定はどのように実現するかは別の問題であるが、桂園という所は当時の「双十協定」の締結における重要な場所として歴史的な遺跡となっている。
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